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櫻井孝昌さんとの最後の夜のこと
今日、櫻井孝昌さんの告別式があった。
お通夜と告別式でお会いした櫻井さんは月並みな言い方をすれば驚くほど安らかな顔をされていた。まるで、最後に会った夜に「じゃあな」と言って電車に乗り込んだ時、にっこり笑った時のようだった
櫻井さんが西日暮里の駅で事故に巻き込まれるわずか十分前、神田駅のホームで見た笑顔。それが櫻井さんとの、本当の意味でのお別れになるなどと、その時は全く想像もしていなかった。
櫻井さんと最後の日、楽しく飲んでいた人間は僕だった。
事故の直前、最後の十分まで一緒にいた。
最後に言葉を交わした人間も、おそらく僕なのだろうと思う。
櫻井さんが亡くなられてから、ブログやツイッターなどで多くの追悼文が書かれた。僕は見つかる限りのものを読んだ。本当に感動的で、なるべく多くの方に目を通してもらえればと思う。櫻井さんの遺した大きな業績や、あの方が周囲の人間にとってどれほど大きな存在であったかが伝わるはずだ。
だけど、そこには描かれていないことがある。
櫻井さんが最後の夜、どう過ごし、何を語ったのか。
それを書くことの出来る人間は自分しかいない。
櫻井さんの人生最後の数時間をもらってしまったのだから。
こうして書きはじめるまで、ずっと迷い続けていた。
きちんとお別れが済むまではやめておこう。
少なくとも、遺族の方とお話出来るまではやめておこう。
そうやって先延ばしにし続けていた。
だが、告別式で出会ったある人に言われた(櫻井さんとは長く仕事をされた方だ)。
「最後に作家さんと過ごしたなんて、本当に櫻井さんらしいですね」と。
最後の姿を書く人まで用意しているなんて、と言ってその方は笑った。
殴られたような気がした。
最後の夜、次の作品の構想を話した時に
「いいから早く書けよ、お前の書いたやつ、好きだよ」
と櫻井さんは言ってくれていたことを不意に思い出したのだ。
思えば櫻井さんとは、ミュージシャンとしての関わりが強く、作家としての自分の話をしたことはほとんどなかった。お渡ししていた自分の作品も、読んでくれていたことはその日まで知らなかった。
その言葉を信じます。
未熟な筆ですが、最後の夜のことを書かせてください、櫻井さん。
少しだけ、前提として櫻井さんと自分の関係について書いておきたい。
櫻井さんとは春のコミケットスペシャルのライブで出会った。櫻井さんが司会で、僕のバンドがオープニングアクトだった。
(ちなみにトリは小林幸子さんで、他にも上坂すみれさん、angelaさん、少女病さん、畑亜貴さん、姫崎愛未さん、うちのバンドで飯田里穂さん、遠藤ゆりかさん、buzzGさんと素晴らしい出演者ばかりのライブだった。櫻井さんはちゃんと全員書けという気がしたので書いておきます)
だから、櫻井さんと僕の付き合いは本当に短い。たった半年ちょっとだ。
その間に、片手では数え切れないけれど、両手には足りないくらいの回数、一緒に遊んだ。アイドルのライブに誘われて、一緒にいった友人を紹介してくださる、というのがいつものパターンだった。不思議とウマが合うというのか、最初から昔からの友達のように扱われ、僕も自然とそう振る舞った。
少し前に、イベントの構想を説明されて、その音楽面を監督してほしいと頼まれ、僕は快諾した。それからはライブハウスの下見に行ったりしながら、会うたびに構想を話しあった。
その日も、一ヶ月前くらいから飲みに行く約束をしていた。最近知り合ったミュージシャンがいるから、彼らを紹介したい、というのがその日の飲み会だった。一緒にやりたいから、会っておいてくれ、と。
僕はその日、レコーディングの現場があり、遅れるかも、ということは事前にお伝えしていた。案の定、スタジオを出た時点で九時半を過ぎていた。
その時のレコーディングのメンバーも櫻井さんにお会いしてみたい(春のイベントで共演し、面識のあるメンバーもいた)ということで電話をしたら、出るなり大きな声で「早く来い! 待ってるから!」。
他のメンバーを連れていってもいいですか、という言葉には「当たり前だろ! 全員連れてこい!」。
慌ててタクシーに乗り、神田のお店(櫻井さんとはいつもそこだった)で十時前に合流した。元々飲んでいたのが櫻井さんを含め三人。合流したのが僕を含め四人。計七人で本来四人向けのテーブルを囲んだ。店内が混み合っており椅子が足りなかったため、僕はビア樽に座った(お店の名誉のために言っておくと、しばらくして空いてきた時に椅子をくれた)。
それから、いつものように赤ワインで乾杯し、お互いに自己紹介をして飲み始めた。僕の連れていったメンバーを見て、嬉しそうに「オタっぽいやつ連れてきたなあ、いいぞいいぞ」。それは、櫻井さんにとって最高の賛辞だった。「お前らが日本を作るんだ」と。
櫻井さんは合流した時点でもう上機嫌に酔っていて、僕のことを紹介するときに「こいつはさ、最近出会った中で一番の天才なんだよ」と言った。そんなに櫻井さんから誉められたことはなかったので、僕はびっくりしてしまい、何も言えなかった。
僕が連れて行った人のうち、一人だけコミケの入稿のためにすぐ帰らなくてはならなくなると、櫻井さんは残念そうにしながらも「コミケなら仕方ないな」とぶつぶつ言っていた。そういえば、IOEAのブースがあるからそこで何かやろう、という話に発展した。展示をするのか、話すのか。正直なところ「今から本気かなあ」と疑いつつも、「どちらでもやりますから本当に呼んでくださいね、ただし三日目は自分のブースがあるのでダメです」とお答えした。
料理がとにかく美味しいお店で、その日のおすすめは鹿のカルパッチョだったのでそれを頼んだのを覚えている。
「ありえないくらい美味いな!」
と櫻井さんは一口食べて言った。ただ、人数に対して少し足りなくて、僕の口に入らなかった。それを見て「もう一つ頼め」。少し遅れてきた鹿肉は本当に美味しかった。それを食べてもう一度「ありえないくらい美味い!」。
それから、いつものように鯖のスモークを頼んだ。いつも頼む定番のメニューだった。
「ここに来たらこれを食べなきゃダメなんだ」
来たものを取り分けようとしたら「この鯖のスモークは俺が取り分けないとだめだ……コツがあるんだ」と。そういえば、毎回櫻井さんが取り分けてくれていた。
料理を食べながら、色々な話をした。あっちこっちに話が飛びながら話したのは、大体音楽のことだった。主要なテーマは二つで、一つはその日新しく思いついたバンドの企画をどう思うか、ということだった。
本当に実現する可能性を考えて、具体的には書かないでおこう。面白い構想だと思った。ただ、実際に音楽の企画として成立させる場合は、こんな風に落とし込んでいかないとダメかもしれませんね、などと思いつくままを話した。否定的な言葉も混ざってしまったので、ちょっと怒られるかも、などと思ったのだが櫻井さんはニヤっと笑って
「そういうこと言ってくれるから俺の企画にはお前が必要なんだよ」
と言ってくれた。そうして、なぜか固く握手をした。その感触がひどく誇らしかった。
もう一つのテーマは、イベントのことだった。まずは櫻井さんとやろうとしているライブのこと。そして、それとは別のイベントの企画が立ちあがっていることを報告したところ
「それ、俺も混ぜてくれるんだよな?」
と一言。むしろダメ元でお願いしようと思っていたのはこっちだったのに。
「いいんですか?」
「当たり前だろ!」
思えば、何をお願いしても「当たり前だろ」で返されていた気がする。きっと、櫻井さんにとっては色々なことが「当たり前」だったのだ。他の人間が入らない場所に躊躇なく踏み込み、それを「当たり前」に変えていく。それが櫻井さんのやり方だったのだ。
他にも話題の流れるまま、色々なことを話した。日本の音楽家の多くがいまだに国内に囚われているということや、偶発的にアニメソングだけがそれを乗り越えたこと。同じことが文化の様々な側面で起きていること。
「オタクは世界中にいるんだよ、だから世界中で通用するんだ」
今ではよく聞く言葉だが、それに気づき、発信してきたのは櫻井さんだった。それは、櫻井さんが「当たり前」に変えたことだった。だからこそ、その日の会話でも、櫻井さんは月並みな「クールジャパン戦略」よりもはるか遠くを見ていると感じた。そこには、文化外交の現場に身を置き続けたからこその重みがあった。
多くの国の話題が出たが、その日はやはり、ロシアのことが多かった。「来年はお前も行くんだから予定空けとけよ」という櫻井さんの言葉に僕は「全力で空けますので、なるべく早く連絡くださいね」と答えたことを覚えている。
あっという間に二時間が過ぎ、終電の時間となって解散した。櫻井さんは領収書を取った。その領収書が、まさか警察で証拠として当日の足取りを辿る資料として扱われるなど、誰に想像が出来ただろうか。
最初から飲んでいた二人が少しだけ早く抜け、僕の知り合いで残っていた二人と、僕と櫻井さんの四人で神田駅まで歩いた。その時の足取りは酔っていたものの、しっかりとしていて、ふらついたり、ということはなかったように思う。
お店を出たところで、急に櫻井さんが言った。「お前は天才なんだから」。突然何を言い出すのかと思って僕は櫻井さんの顔を見つめた。
「……もっと売れないと俺が困る」
その時は僕も気が大きくなっていたから、「そうですね」と答えた。
一瞬、僕の答えにきょとんして、にやりと笑った。いつもの笑いで。
その時、頭をがしがしと撫でられたような気がしているが、きちんと覚えていない。このあたりの記憶は、ひどく曖昧になる。
駅で、突然英語でジョークを飛ばしたりしたから、確かに櫻井さんは酔っていたのだろう。だからといって心配になるようなほどではなかったはずだ。エスカレーターにも普通に乗っていた。
神田駅から僕は山手線で、櫻井さんは京浜東北線で帰ることになった。この二線は併走していて、ホームも同じだ。
だから、僕は「一緒に山手線で帰りましょうよ」と言おうとした。
そして、言わなかった。
ほんの少しだけ、京浜東北線の電車が先に来たから。
どうでもいいような理由だった。
それで十分だったのだ。
だって、またすぐに会えると思っていたのだから。
その瞬間のことをずっと考えている。
あの時、なぜ少しでも違う行動をとれなかったのか、と。
電車に乗り込んだ櫻井さんに手を振ろうとして、やめた。
櫻井さんはドアの反対側を見つめ、別の考え事をしているように見えた。
その姿を鮮烈に覚えている。
たとえ他の記憶が薄れたとしても、その姿だけは忘れることがないだろう。
その後すぐに山手線の電車が来て、僕はそれに乗り込んだ。
櫻井さんにメールでも打とうか、でも明日でもいいかな、などと考えている時に電車が急停車した。
「緊急停止信号です」
それが櫻井さんの事故だったのだ。
僕は翌日までそれに気づかず「終電大丈夫かなあ」などとツイートをしていた。
しばらくして電車は動きだし、僕は帰宅した。
これが、僕が櫻井さんと過ごした最後の夜のことだ。
その後のことも少しだけ書いておきたい。
起床し、しばらくネット記事やツイッターを見ていた時に、櫻井さんの訃報に気づいた。
はじめは何かの悪いジョークなのかと思った。
いやいや、昨夜まで飲んでいましたよ、と。
しばらく検索を続けて、それが事実だと気づいた。
それから、一時間以上、ニュース記事を探しては読んだ。
同じ記事しか出てこないのに、何度も検索しては、それを読んだ。
おそらく「やはり誤報でした」というような内容を求めていたのだろう。
あまりにも信じがたかった。
ニュースを見続けているうちに、当日の足取りに関して妙に曖昧な表現であることに気づいた。
ひょっとして、これ当日のことを分かっていないのでは、ということにそこでようやく気づき「迷惑になってもいい」という気持ちで荒川警察署(西日暮里駅が所轄であることはネットで調べた)に電話をした。
その事件の担当者はいないということだったが、電話番号を伝えたところ、すぐに担当の刑事が電話を折り返してきた。主に前日の足取りについて聞かれた。
何かありますか、と最後に聞かれ、急に思いつき、「もしお通夜と告別式に参列してよいなら、場所と日取りを教えてほしいとご遺族に伝えてください」と言づてを頼んだ。
何時間かして、ご遺族の方から連絡が来た。その時に、仕事関係の方などに伝えてよいかどうかを訪ねたところ、出来る範囲でお願いしたい、ということだった。その連絡を方々にしようと考えたときに、あまりにも無謀だったと気づいた。
櫻井さんの知り合いは、僕の把握できる範囲をはるかに超えている。
そこで、もう一度ご遺族に電話をして、無制御に広がりすぎることのないようにした上で、SNS上で拡散させてほしいというお願いをした。
これがよかったのかどうか、今でも分からない。
だが、その時の自分はそうしなければと思った。
色々な方が不思議に思っていたであろう、僕が告別式の情報を知っていた、という理由は、こういうことだ。
櫻井さん。
最後に僕と過ごしていただいた数時間は、本当は家族や、親しい友人と過ごすべき時間をいただいてしまったのだと、今でも思っています。
おこがましくも、僕はそのことに責任を感じています。
どうやっても責任を取ることなんて出来るわけもないのに。
最後まで未来しか見ていなかった貴方の真似をして、僕もなんとか前を見て歩こうと思います。
さようなら。
もしいつか会えるなら、また楽しいお酒を飲みましょうね。
砂守岳央